飯島天太 公式ブログ

生まれや育ち、病気や障害、年齢や性別に関係なく皆が笑って暮らせる社会へ!

ご挨拶

 

飯島天太のブログを御覧いただきまして、誠にありがとうございます。

初めましての方に向けまして、簡単にではありますが自己紹介をさせていただきたいと思います。

 

 

■名前

飯島 天太(いいじま てんた)

 

お天道様の天と、太陽の太、両方とも名前は『太陽』から頂いています。

4年前に港南区に引っ越してきてから知ったのですが、港南区には天照大神(てんしょうだいじんぐう)という大日孁貴(オオヒルメノムチ)=天照大御神アマテラスオオミカミ)や布刀玉命(フトダマノミコト)=天太玉命(アメノフトタマノミコト)を祀る神宮があり、さらに港南区の花は「向日葵(ひまわり)」であることから、自衛隊を退職して横須賀から横浜に戻ってくる際、この港南区に引っ越そうと思ったのは何か不思議な縁があったのかもしれません…と勝手に思っています。

 

■年齢

27歳(2022/3/25現在)

 

1995年(平成7年)の3月31日に、横浜市青葉区にある横浜総合病院で産まれました。

予定日は4月の中頃で、早産で生まれてすぐICUに入ったそうです。

早生まれで周りの子と比べて体が小さく、幼少期は色々と苦労することもありましたが、今では身長173cm、体重87kgと、体格だけは大きく育ちました。

1日に米を3~4合、水分を3~4リットルは摂るので、食費が嵩むのが悩みの種です。

 

■性別

 

子供の頃は周りの男の子がしていたような球技やスポーツ、また仮面ライダーや戦隊ヒーローなどに興味を示さず、おままごとが好きでした。

色白で華奢だったので女の子に間違われることも多く、実際小学校や中学校に上がっても、あまりクラスの男子とは話が合わず、いじめに遭うこともしょっちゅうでした。

女の子に憧れて家で化粧をしたりスカートを履いてみたりしたこともあったのですが、年齢を重ねていくうちにどんどんと骨格が太くガタイが良くなり、周りと合わせているうちに恰幅のいいおじさんのようになってしまいました。

今考えると思春期の自分の性自認は曖昧だったのかな、と思うこともありますが、後天的な知識や経験、環境に染められたのか、今では自分の性自認は男であると自覚しています。

 

■学歴

横浜市立 東山田小学校 入学

横浜市立 新石川小学校(2年生~5年生)

横浜市立 東山田小学校(6年生~卒業)

 

横浜市立 東山田中学校 入学~卒業

 

学校法人難波学園 横浜調理師専門学校 入学~卒業

 

神奈川県立 横浜翠嵐高等学校 定時制普通科 入学~卒業

 

小中学校時代は周りと馴染めず、いじめられっ子でした。

成人してから親に告げられて知ることになるのですが、私はASDアスペルガー症候群)とADHD注意欠陥多動性障害)という2つの発達障害を持っており、私の幼少期の頃は現代とは異なりまだ世間的に発達障害という言葉が浸透しておらず、また、ネガティブなイメージが強く、『頭のおかしい子供』として、通っていた学校のPTAや保護者の方々や先生方からは疎まれていたようです。

 

『突然暴れて何をしでかすか分からないから、授業でハサミや彫刻刀を持たせないでほしい』

『落ち着きがなく、授業中に抜け出したり他の子にちょっかいをかけて迷惑。別の教室に隔離してほしい』

『おたくの息子さんは頭がおかしいから、養護教育に入れてください』

 

成人してから母から聞いた、母が当時実際に言われた言葉の一部です。

私自身も今思うと『当時の自分はなぜこんなことをしたのだろう』ということはありますが、当時は突然不意に押し寄せる謎の衝動や、誰も話を聞いてくれない、理解してもらえないという寂しさや悔しさ、そういった複雑な感情に飲み込まれていたのだろうと思います。

歳を重ね、今は昔と比べると自分でも随分落ち着いてきたなと思いますが、ところどころやはりASD由来の言葉の裏を読むのが苦手であったり、グレーな部分を掴んだりするのが苦手であったり、ADHD由来の突発的な行動や時間やスケジュール通りに動くのが苦手というのは今も色濃く残っています。

世の中には私と同じように発達障害に苦しんだり悩んだりしている人達が大勢いらっしゃると思います。そして中には私より軽度の方もいらっしゃるでしょうし、逆に私よりもずっと苦しんでいる方も大勢いらっしゃると思います。

ただ、私は発達障害というのは今の人間社会において、いわゆる定型発達の普通の人達と呼ばれる人達が多数派であるからこのように言われているだけであって、もしも今発達障害とされている方々と定型発達の方々の数が逆だったら、きっと定型発達の方のほうが障害とされていたのだろうと。少数派だからこそ発達障害という名前がついているだけのことに過ぎないと私は思っています。

 

近年発達障害の大人や子供が増えているという一部メディアの報道などもありますが、実際には発達障害という名前や概念がここ最近で広まってきただけで、社会全体の発達障害を抱える人々の総数は時代を通じてさほど変わっておらず、ただ単に『本人が気づいていなかった』もしくは『周りが気づいていなかった』だけだと私は考えています。

 

発達障害という言葉の認知度が進んできた現代においてもなお、発達障害という言葉にネガティブなイメージを持たれる方は少なくないと思いますが、これは私はある程度は仕方のないことだとも思っています。

結局は先に申し上げた通り、今の社会は定型発達の方のほうが圧倒的多数派であり、人間を含め多くの動物は本能的に異質なものを苦手とするため、それがなかなか理解してもらいづらい原因だと思います。

しかし発達障害を持っていようがいまいが、結局は同じ人間だということ。

そして発達障害のネガティブな部分だけではなく、良い部分にも注目してもらえたら良いな、と思い、私は自身が発達障害も持っているということを隠さず、公開して政治活動に望んでいます。

 

恐らくこれに対して賛否両論あると思います。

『障害をダシに使うな』とおっしゃる方も中にはいらっしゃると思います。

私自身、自身の生い立ちや発達障害であることを利用するつもりはありませんが、そういう目で見られてしまうこともあるということは理解しています。

しかし、発達障害というものに対しての理解を得るためには、まず何よりも『知ってもらう』ことが重要だと考えています。

発達障害に限らず、世の中には様々な病気や障害を抱えた方がいらっしゃいます。

私はそれを『隠したままでいたい』という方の意思を尊重します。しかし、中には『隠しておくつもりは無いけれど、受け入れてもらえるかどうか分からなくて怖い』という方もいらっしゃると思います。

私はそういった方々が『自分らしさ』を隠さずに、そうでない方々と共存して認めあって生きていける、開かれた自由な社会を作りたいと考えています。

 

■好きな言葉

「みんなちがって、みんないい」 ――故:金子みすゞ氏(詩人)

 

今、世界では平等を求める声と差別の反対を訴える声が大きくなっており、日本でもそういった活動や行動をされている方が大勢いらっしゃいます。

しかしその一方で、既存の生活や文化、歴史や価値観を破壊されてしまうという懸念や、何を持って平等とするのか、どこからが差別でどこまでが区別なのか、という声も多く耳にします。

 

私個人としては、『平等』というものは皆が求めているものとはちょっと違うのかな、と思っています。というのも、男女の平等というものは性によって身体や脳の構造に差がある以上、お互いにできることやできないことがあって当然だと思いますし、当然向き不向きもあるものと思います。

もちろん中には例外もいらっしゃるでしょうが、一般的に男性と女性であれば男性の方が力が強い人が多いのは事実ですし、女性にしか子供を産むことはできないのも事実です。

科学技術が発達すれば、いずれはパワーアシストスーツを着用したりすれば女性でも男性でも関係なく重いものを持ったり運んだりすることは容易になるでしょうし、倫理的な問題はさておき、人体ではなく人工的に装置の中で受精を行い、出産することもできるようになるでしょう。

 

しかし現実にはまだそういう時代にはなっていない訳ですし、男性と女性、そして一部の例外である両性具有の方などの区別は当然必要なものだと考えていますし、私はそれが差別に当たるとは考えていません。

もちろん基本的な人権や一部の差別的な処遇などは是正されるべきだと考えていますが、これがあまりにも行き過ぎてしまうと、今度は逆差別に繋がってしまうと私は考えています。

福祉というのは『全ての人がより良い生活をして幸せになること』なので、誰かが我慢を強いられるというのは間違っていると私は思います。

 

私は偏った平等ではなく、公平で公正な社会を望みますし、その実現のために最大限の尽力をするつもりです。

平等と公平の違いを説明するのは難しいのですが、下記の画像を見てもらえると、そのイメージが伝わりやすいかと思います。

 

Thom Mc в Twitter: „Great session with @NWPCCFoulkes @MabsHussainMBE @CoP  @coachfizz about the importance of wider community representation across  the police family. Inclusion is something that we all have a stake in

左側が平等、右側が公平のイメージ図です。

 

イラストの左側では大人、子供、そして車椅子の方、それぞれに1段ずつ箱が用意されています。これが『平等』です。

大人は箱の上に立ち、余裕を持って壁の向こうを見ることができていますが、子供は壁が高く、見ることはできていても少し背伸びをしなくてはなりません。

車椅子の方は当然箱の上に立ってみることはできませんから、壁の向こうを見ることができません。

 

一方でイラストの右側では大人には箱がなく、子供に箱が2つ、そして車椅子の方にはスロープ付きの台が用意されています。

大人は箱がなくても十分向こう側を見ることができていますし、子供も余裕を持って壁の向こうを見ることができます。

そして車椅子の方も台の上に乗って、しっかりと壁の向こうを見ることができています。

 

他にも大勢で同じ作業をする時に、右利きの人が10人、左利きの人が2人居たとします。

全員に平等に右利き用のハサミを渡せば、左利きの人にとっては不便です。

逆に全員に平等に左利き用のハサミを渡せば、右利きの人にとっては不便です。

そこで、公平に右利きの人には右利き用のハサミを、左利きの人には左利き用のハサミを渡せば、全員が不便に感じること無く作業を進めることができます。

 

このように、一人ひとりに合わせた公平な社会こそが多くの人が本当に望んでいるものであって、平等社会というのはいささか柔軟さに欠けるように私は思います。

 

私の好きな「みんなちがって、みんないい」という言葉は、『あなたはあなたでいい』という、金子みすゞさんの代表作の一節です。

あなたはあなたでいい

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

 

人にはそれぞれできることやできないこと、得意なことや苦手なことがあります。

人間一人ひとりがもつ力はとても弱いものです。しかし、人間は集団で、群れで生きる生き物です。

誰かの苦手なことは誰かの得意なこと、誰かのできないことは誰かができること。

そうやって人間という生き物はお互いの欠点を補い合って生きているのです。

 

繰り返しになりますが、だからこそ私は、多くの人が不便や不公平を強いられる『平等な世界』よりも、皆が互いを支え合って生きる、自由で『公平な世界』を望んでいるのです。